マネ作「横たわるベルト・モリゾの肖像」を模写してみたよ(本編)

マネの「横たわるベルト・モリゾの肖像」を模写するとこにした。
本物はこれ
元のサイズは26×34cm。キャンバスは、ほぼ同サイズのF4(242×333)を使用。
使用絵の具は、ホルベイン専門家油絵具Hセット12色。
それなりの値段はするが、そうは言ってもビリジャンなどは高いので、
なんちゃって絵の具「ヒュー」がいくつか入っている。

下書き

横たわるベルト・モリゾの肖像(模写1)木炭でデッサン。「あたり」を付ければ、あまり苦労することはない。
(今振り返れば、この時点で頬がぽっちゃりしている)
[経過時間30分]
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下塗り

横たわるベルト・モリゾの肖像(模写2)フィキサチーフで木炭を固定し、ひととおり色を置く。
壁は黄色系を下塗りし、その上に赤茶を塗っていると思われたので、
下塗りとして、パーマネントイエローライトとイエローオーカーの混色を塗っておく。
一番大事な顔の部分は丁寧に。

人間の肌は、バーミリオンとイエローオーカーにパーマネントホワイトを加える。
血管の青白さが必要なので、若干コバルトブルーを混ぜて表現する。
(一時期肌色系の絵の具を使用していたが、かえって肌がウソっぽくなるので使用をやめた)
赤みが差しているところはバーミリオンを強く、影が差しているところはコバルトブルーを多めに入れるか、思い切ってバーントシェンナを入れる。

服はアイボリーブラック。ビリジャンが若干入っているような気がしたので加えてみたが、さほど効果がない。やはり、アイボリーブラックは混色を許さない。
髪の毛は、バーントアンバーとバーントシェンナが中心。パーマネントホワイトやクリムソンレーキも加え、グラデーションを付ける。

視線が定まらないので、何回も書き直す。まだ、納得いっていない。
[経過時間2時間30分]

本塗り

横たわるベルト・モリゾの肖像(模写3)細部の描き込み。
壁はクリムソンレーキ。黄色系を下塗りしたためか、本物より赤くなってしまった。バーントシェンナも加えた。
頬の部分が本物よりぽちゃっとしているので、若干削る。
顔の陰影を強調する。左鼻筋の影が大事。視線がまだおかしい。
[経過時間4時間30分]

仕上げ

横たわるベルト・モリゾの肖像(模写完成)胸元に花が付けてあるのを発見。あくまでも顔が主役なので、目立たないように、うっすらと(クリムソンレーキとパーマネントホワイト)。
目線は何度も書き直して、ようやく定まった。黒目部分の輝き(ホワイト部分)で決まることが分かった。
口元をきりっと上げ、自然な笑顔にする。上唇のほんの少しの違いで、表情がまるで変わってしまう。
下唇と上あごの間の影も忘れずに。

左の鎖骨の陰影を強調する。特に女性の肖像画は鎖骨の陰影がないと、リアリティに欠ける。何か物足りなさを与えてしまうのだ。
割と見落としがちだけど、大事なところ。

顔の輪郭は削ったものの、まだぽちゃっとしている。
十分気品も出せていると思うし、下手にいじると全体を台無しにしてしまう。
自分はこれくらいが好みなんだなと、納得させて筆を置く。
仕上がり自体には満足している。
[経過時間5時間30分]

感想

一番の発見は、視線と唇の僅かな違いによって、全く違った表情になること。
これは本当に繊細な描写が要求される。
また、顔半分を鼻を境に思いっきり陰影を付けると、顔に立体感が出ることも再確認できた。
やはり、肌色を表現するのは難しいが、今回の配色方法で大分自信がついて来た。
しばらく、このやり方でいこう。
ルノアールはビリジャンも使っているみたいだから、コバルトブルーのかわりに使ってみようかな。

マネは素晴らしい。レイアウトは黄金比1:1.618が守られていて、安定感がある。
他の作品もそうだけど、レイアウトが実に機密に考えられている。

ボクは、ルノアール、モリゾ、シャガール、クリムトなどの画家が好きだが、模写するならやはりマネが一番勉強になる。
これからも時間があるときに、マネの模写に挑戦したい。

マネ作「横たわるベルト・モリゾの肖像」を模写してみたよ(前書き)

先日まで丸の内の三菱一号館美術館で「マネとモダン・パリ展」が開催された。
この作品展で特出すべきは、エドゥアール・マネによるベルト・モリゾの肖像画群。
女性画家モリゾはマネに師事し、マネのモデルを多く務めた。のちにマネの弟、ウージェーヌ・マネと結婚している。

マネによるモリゾの肖像画は10点ほど現存し、うち5点が今回の絵画展で一堂に会した。
こんなことは、本当に珍しい。

すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」は誰でも知っているほど有名な肖像画。
ボクはオルセー美術館で見たことがあるので、今回は二回目。作中のモリゾは気品があって美しい。
それを際立たせているのが黒い衣装。墨のような黒さ。

マネは好んでこの黒を使っているが、この色を使いこなすことは非常に難しい。
おそらくアイボリーブラック系だと思うが、混色を許さない絵の具なので、下手に他の色と混ぜる(混ざる)と汚くなってしまう。扱うのはとても勇気がいる。

以前、「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」を模写したことがあるが、実物と再会すると、一目で遥かに及ばないことに気づかされた(当たり前)。また、模写しておきたい。

次に目を引いたのは、「横たわるベルト・モリゾの肖像」(1873)
(油彩、カンヴァス 26×34cm マルモッタン美術館)

26×34cmという小さい作品だが、繊細かつ大胆なタッチで、モリゾの気高さ(「かっこよさ」の方が妥当かもしれない)を表現している。
モルゾが着ている黒の衣装も、その気高さを際立たせている。実に見事。

モリゾの作品群は、マネのダンディズムとモリゾの気高さが、見事に融合している肖像画だと思う。
展示場の紹介文には「マネとモリゾの共犯関係」と書かれていたが、まさに言い得て妙。

やはり、マネは素晴らしい。シャレではないが、マネしたい。
そこで「横たわるベルト・モリゾの肖像」を模写することにした。
実際の制作過程は次回に。

九州のおじさん

5,6年前のことだろうか、母から訃報の電話が届いた。
「九州のおじさんが亡くなった」と。
その数年後、祖父が亡くなったのだが、そのときよりも動揺したことを覚えている。

戦後、間もないころだっただろうか。
ボクの曾祖父が亡くなった。
代々田舎百姓だった我が家は、いくらばかりの農耕地を持っていた。

当時、今もそうかもしれないが、田舎の相続というものは、長男が全ての相続を継承するのが常識。
長男だった祖父は、全ての家財を相続した。

ほかの兄弟はどうするのか。働き手の無いところに婿養子に行くか、独り立ちするかの選択肢しか無い。
ボクが知る限り、祖父には二人の弟がいることを知っている。
ひとりは「東京のひと」、もうひとりは「九州のおじさん」としよう。

「東京のひと」は、なんと我が家のナケナシの財産を持ち逃げして、東京へ出奔した。
その後の話をまとめると、彼は東京で一旗揚げ、社長になったらしい。
ただ、「なりあがり」によくありがちなことだけど、酒食に溺れ、会社は傾き、倒産。
ついには、路上生活者にまで落ちぶれてしまった。

彼が出奔するのは、ボクが生まれる前で、そんな人を知る由もなかった。
我が家では、彼は絶縁状態にあり、彼の存在は「ないこと」になっていた。

ボクがその人の存在を知ったのは、高校生のころだったろうか。彼の密葬を行った数日前だった。
彼は東京の野外で亡くなっていたのを警察によって発見された。我が家からの連絡は絶っていたものの、自分の運転免許書だけは持っていた(自分に残された唯一のアイデンティティだったのかもしれない)ので、こちらに連絡が入ったのだ。
ボクは高校の授業もあったし、親からも臨席を強要されなかったので、葬式には立ち会っていない。遺体も見ていないので、親戚が亡くなったという実感がなかった。
ただ、密葬の日から、仏壇の上には「東京のひと」の遺影が置かれていた。ずいぶん昔の写真だったが、若い頃の祖父とそっくりであった。

もうひとりは「九州のおじさん」のことを話そう。

実はボクは、一回しか会っていない。小学校の頃、曾祖母が亡くなったとき、彼は葬式にやって来たのだ。
九州に居を構えていたので、みな「九州のおじさん」と言っていたが、父母の代からみれば「おじさん」であり、ボクからみれば「おおおじさん」とも言うべきだっただろう。小学生だったボクは、祖父の弟という定義がイマイチ理解できず、皆と一緒に「九州のおじさん」と呼んでいた。
「九州のおじさん」との出会いはこの一回だけだが、「みんなと違って上品だなぁ」という漠然とした記憶だけが残っていた。

九州のおじさんは祖父兄弟の末っ子だった。これまで述べたように、「東京の人」のおかげで、家財はすっからかん。まだ中卒だった彼は、婿養子の年齢でもなく、いわば干されていた。

おじさんは一大決心をした。単身、静岡に渡り、働きながら、夜間の高校に通い、そして、大学にも進んだ。大学では確か工学部を専攻し、中国語も習っていたようだ。

大学卒業後、おじさんは、北九州の鉄鋼会社に就職した。そこで結婚、居を構えた。これでようやく「九州のおじさん」になれたわけだ。

おじさんはその能力を買われ、中国に単身赴任を命ぜられた。
そのころは、1972年に田中角栄が周恩来と「日中共同声明」を調印する前であり、毛沢東指導の学生運動とも言える「文化大革命」のころだと思われる。
日中国交前、そして中国国内の大混乱を考えると、その労苦は大変なものだっただろう。

おじさんは語学能力のセンスがあったのか、努力家だったのか、主に鉄鋼関係の通訳として活躍した。1980年代、中国は鄧小平の改革開放により、資本主義経済への大転換が図られ、彼のような「中国屋」は大いに重宝したようだ。ついには、定年退職するまで、ほぼ中国で単身赴任をしていた。いや、退職後も中国サイドからの強い要請で、度々現地に赴き通訳をやっていたようだ。

七十数歳を迎えた九州のおじさんは、さすがに年齢も年齢だから、もう身を引いて悠々自適の生活を送ろうと考えていた。
しかし、中国から帰った数日後、心臓マヒで倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまった。

ボクは「2000年程前の中国の歴史が好きだから」という至極安直な理由だけで、大学で中国語や言語学を専攻した。高校は進学校だったものの、遊びほうけていたので、その反動からか、真面目すぎる程勉強してしまった。ついには留学も一年果たし、今は転職を二回したものの、中国や中国語に関係する仕事に就き続けている。

ボクが「中国屋」をやっているのは、全くの偶然だと思っているが、「九州のおじさん」の活躍は家族から度々耳にしていたので、いつかはお会いして教えを請いたいなと漠然と思っていた。
しかし、その願いと裏腹に、あっけなく亡くなってしまった。
おじさんの死後、北九州の自宅から分厚いファイルが送られて来た。その中には、中国でのいろんな経験談などが記されており、「中国屋」にとっては大変貴重な資料であった。なぜ、九州のおじさんは、こんな資料を残していたのだろう。亡くなってしまった今では分かる由も無いが、「経験を後世に残すため」に、ある種の使命感から書き残しておいたのだと思う。
時間が出来たら整理して、電子書籍にしようかと思っている。これは是非ともやっておきたい。

ちなみに、ボクの祖父は大工と農家を兼業していた。60歳を過ぎた頃だろうか、バイクの自損事故で足を折って以来(どうやら飲酒運転だったらしい…)、急速に頭が衰え、認知症になった。徘徊も繰り返すようになり、家での介護は手に負えなくなったため、85歳で天寿を全うするまで約10年、老人ホームで残りの日々を過ごした。

たまに考えるのだけど、祖父、九州のおじさん、東京の人、誰が幸せな人生を送れたのだろうか。
それは本人に聞かないと分からない。
普通に考えれば、九州のおじさんだろうけど、祖父も晩年頭の中では幸せだったかもしれないし、豪遊した東京の人も後悔がなかったかもしれない。

ボクは今どういう人生を送りたいか、まだまだ模索中であるけれど、ボクは「九州のおじさん」の生き方に、あこがれを抱くとともに、親戚にこんな立派な人がいることを誇りに思っている。

会いたかったな。